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   富士精工Q&A

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 工具に「夢とロマン」を求めて (1950~)

 1958年3月、ドイツのマイスター制度に畏敬の念を抱いていた森清(故人)が、工具というアイテムを通じ、いつかは自分の手でマイスターを育て、ドイツに匹敵するような日本一のものを作りたいという「夢とロマン」を掲げ、名古屋市内に会社を立ちあげました。日本一のものを作るという夢を「富士」の文字に、精密工具というアイテムを「精工」という文字に込めた富士精工の誕生です。
 この大きな夢を現実のものとするため、高成長が予見され、かつ大量の工具による加工を必要としていた自動車産業に販路を求めました。とはいっても現実は、超硬ブレードの切断や簡単なロー付け工具の製作を請け負う総勢13人の小さな町工場からのスタートでした。




 時代を先見した「C-max」 (1960~)

 1969年に最初の転機が訪れました。森が超硬工具協会の欧米視察団に参加した際、フォード社のトランスミッション工場で、当社の今後を決定づけるスローアウェイ工具(刃先を容易に交換できる工具)と出会ったのです。
 「自動車部品を大量生産するには、熟練工に頼らずとも誰でも容易に操作できる工具が必要。日本でもこれが求められる時代がやってくるだろう」。そう直感した森は、ロー付け工具に代わるスローアウェイ工具の生産体制を確立するため、旅を早々に切りあげ帰国の途につきました。そして早くもその翌年には、スローアウェイカッターの製造販売をスタートさせました。
 このスローアウェイ工具の刃先に使用される超硬合金とは、タングステンなどからなる高価な金属です。文字どおりに「使い捨てる」ことに疑問を感じた森は、その再利用にも着目しました。そして、使用済み工具を再研磨した再生刃具とこれ専用のホルダー(保持具)の開発を指示し、「C-max溝入れツール」の誕生に至ったのです。
 「C-max溝入れツール」は発売されるや否や、業界標準となるほどヒットしただけでなく、リサイクルの精神をいち早くビジネスに取り込んだという点でも脚光を浴びました。当社成長の礎を築き、今なお現役を続けるロングラン商品です。




 工具の国産化/技術の深化 (1970~)

 モータリゼーションの波が一層高まった1970年代初頭にあっても、自動車エンジン部品(シリンダーヘッド・ブロックやクランクシャフトなど)を加工する工作機械はドイツやアメリカ製、工具ももちろん輸入品といった状況でした。そしてどれも専用品のため、高価で納期は不特定、何とか国産化できないかというのが、当時、当社の最大顧客となっていたトヨタ自動車の念願だったのです。
 かくしてトヨタ自動車による外国製工具の国産化プロジェクトがスタートし、その実務的な役割を当社が担うことになりました。しかし、これらの工具は、マイスターの技能が結集した特別なもので、当時、国内で高度な技能を有していたゲージメーカーですら製作には困難を極めた代物でした。
 純国産技術で乗用車を作りあげたトヨタ自動車のこだわりに応えるため、外国製品のベンチマークに始まり、社内での作り込み、テスト加工といったプロセスを何度も繰り返しました。その結果、数年を経て、外国製工具の国産化という目的は達せられ、現在に連なる「難しいものは富士精工」という評価を決定づけました。



 こうした経験を礎とし、その後も、容易に脱着交換できる「クイックチェンジホルダー」、刃先径を容易に調整できる「微調整ホルダー」、複数工程を同時加工する「複合加工ツール」など、時代が求めるエポックメイキングな工具を多数輩出しました。



 事業分野の拡大/株式上場という決断 (1980~)

 さらに1980年代に入ると、技術の拡大にも挑戦しました。工具の周辺機器である治具やワーク測定ゲージ、射出成型金型、自動車用試作部品などを商品ラインナップに揃えることで、単なる特殊工具メーカーという殻を完全に脱することになりました。



 創業以来20年を経て、社員180人余り、売り上げ28億円と特殊工具メーカーとしては大規模な部類へと成長した当社は、組織強化や人材確保といった課題に直面しました。しかし、一般に流通することのない特殊工具というアイテムを扱ってきたこともあり、世間での知名度は皆無に等しかったのです。さらには、優良企業が名を連ねる三河地区に本社を置くことが採用面でマイナスにはたらき、人材確保には困難を極めました。
 「優秀な人材を得るため、さらには、確保した人材に会社に対する誇りを持ち続けてもらうにはどうしたらよいのか」。こうした人的課題を解決するための方策として当社が導き出した結論とは、一般社会での認知を意味する株式の上場でした。かくして、1982年10月、名古屋証券取引所2部市場に上場を果たし、一般社会での認知を受け、抱えていた人的課題を解決する糸口としました。




 世界各地のユーザーのために (1990~)

 1980年代半ばのプラザ合意により、円高ドル安が進行し、自動車メーカーの海外生産が本格化しました。こうした動きを受け、「主要顧客の工場付近に根ざす特殊工具メーカー」という血筋を引く富士精工は、アメリカや韓国を手始めに現地会社の設立に動きました。
 そして、1990年代に入ると、この動きに一層拍車がかかり、インドネシア、中国、タイなどにも相次いで会社を立ち上げたのです。生まれながらに「ローカルの生産・サービス拠点」「富士精工製品の生産工場」という2つの役割を与えられたこれらのグループ会社はその後、着実に力を蓄え、2000年以降には富士精工グループ内の主力工場へと成長を遂げることになりました。
 失われた10年と呼ばれる1990年代、しかしその一方で当社にとっては、将来に向けた種まきとその育成にも力を注ぐなど、失ったものよりも得るものの方が多かった10年と言えます。そして、この時期をもって、創業時の夢であった日本一の富士を越えることになりました。




 工具メーカーから工具コーディネーターへ (2000~)

 1990年代後半あたりから、自動車メーカーの海外展開がさらに加速し、人材不足という問題が露呈し始めました。工具に関わる業務だけ拾い出しても、生産準備からライン立ち上げ後の工具管理に至るまで多岐にわたる仕事があり、人材が不足するなかでどう対処していくのか各社とも頭を抱えていました。
 こうした悩みを顧客ニーズと認識した当社は、2000年に新たなビジネスとして、お客様の工具室の運営をコンセプトにした「FTE事業(Fuji Total Engineering Business)」を立ちあげました。
 これに対する当社のこだわりとはたったひとつ、顧客の社内業務を代行する以上は顧客そのものになりきって工具を取り扱うこと。「まず自社製品ありき」という考えを捨て、自社製品より他社製品が優れていればそれを調達し、どこにもなければ自社製作するなど、あくまで工具のコーディネーターに徹しています。今日の富士精工が工具メーカーではなく、ツールエンジニアリングカンパニーと呼ばれるゆえんはこうしたところにあります。




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